第一船団と植民地の始まり(First Fleet)
1788年1月26日、アーサー・フィリップが率いる11隻の第一船団(First Fleet)がシドニー・コーブに流刑植民地をつくりました。国立博物館は、これをヨーロッパによるオーストラリアの植民地化の始まりとしています。出航から上陸までの流れと、先住民のエオラの人々への影響をまとめます。
第一船団とは
国立博物館(National Museum of Australia)の教材ページ(新しいタブで開く)は、1788年1月の第一船団(First Fleet)のシドニー・コーブ到着が、ヨーロッパによるオーストラリアの植民地化の始まりだったとしています。船団は11隻で、イギリスからの囚人を乗せていました。
11隻の内訳
ニューサウスウェールズ州立図書館(State Library of New South Wales)の教材では、11隻の内訳は次のとおりです。
| 種類 | 数 | 船の名前 |
|---|---|---|
| 海軍の船 | 2隻 | シリウス(HMS Sirius)、サプライ(HMS Supply) |
| 囚人の輸送船 | 6隻 | アレクサンダー(Alexander)、シャーロット(Charlotte)、フレンドシップ(Friendship)、レディ・ペンリン(Lady Penrhyn)、プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)、スカボロー(Scarborough) |
| 物資の補給船 | 3隻 | ボローデール(Borrowdale)、フィッシュバーン(Fishburn)、ゴールデン・グローブ(Golden Grove) |
なぜ流刑植民地がつくられたか
国立博物館は、次のように説明しています。
- イギリスは、遠い土地へ送る「流刑(transportation)」で囚人を国外に出していました。
- 1783年にアメリカの植民地を失うと、イギリスの刑務所はいっぱいになりました。
- 囚人の多くは貧しく、大きな工業都市の出身者が多くいました。大半はイングランド出身で、アイルランドやスコットランドの出身者もかなりいました。
民主主義博物館(Museum of Australian Democracy)の「Documenting a Democracy」のページ(新しいタブで開く)では、1779年に植物学者ジョゼフ・バンクス(Joseph Banks)が、流刑の新しい送り先としてオーストラリアを提案しました。イギリス政府は最終的に、ボタニー湾(Botany Bay)を植民地の場所に決めました。
フィリップへの指示書
同じページの説明では、国務大臣シドニー卿(Lord Sydney)が、海軍のアーサー・フィリップ(Arthur Phillip)を船団の指揮官と初代総督に選びました。出発前、フィリップは国王ジョージ3世から「指示書(Instructions)」を受け取りました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 日付 | 修正された任命状は1787年4月25日付 |
| 範囲 | ニューサウスウェールズ(New South Wales)は、太平洋の近くの島々を含み、西は東経135度まで(大陸のほぼ中央) |
| 主な内容 | 囚人の管理、土地の付与と耕作、土地の探検 |
民主主義博物館は、この指示書を、オーストラリアの占有と入植についての最初の公式の文書だとしています。指示書には、先住民の命と暮らしを守り、友好的な関係を促すよう書かれていました。しかし、先住民の土地を守ること、認めることには触れていません。土地が誰のものでもない「テラ・ヌリウス(terra nullius)」という前提があり、この前提がその後200年以上、土地の法と占有に影響しました。
出航からシドニー・コーブまで
民主主義博物館のページによる流れです。
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 1787年5月13日 | 第一船団がイギリスのポーツマス(Portsmouth)を出航する |
| 1788年1月18日 | ボタニー湾に着く |
| その後すぐ | 真水が足りず、停泊地も開けすぎていたため、ボタニー湾は適さないと判断し、ポート・ジャクソン(Port Jackson)に移る |
| 1788年1月26日 | シドニー・コーブに入植する。この日はのちに「オーストラリア・デー」になる |
| 1788年11月 | 最後の船がイギリスへ戻る |
シドニー・コーブは、今のサーキュラー・キー(Circular Quay)にあたります。
初期の植民地
植民地はすぐに食料不足に直面しました。最初の作物がうまく育たなかった理由として、国立博物館は次の点を挙げています。
- 技術のある農業者がいなかった
- イギリスから持ってきた種が傷んでいた
- 土地の土がやせていた
- 慣れない気候と、質の悪い道具
フィリップは、食料を囚人と自由入植者で分け合うよう求めました。1790年、マンリー(Manly)でエオラの人々と会ったときに槍で負傷しましたが、回復し、その後2年間総督を続けました。1792年、2人の先住民の男性とともにイギリスへ戻りました。ベネロング(Bennelong)はのちにオーストラリアに戻り、ヤメラワニー(Yemmerrawannie)はイギリスで亡くなりました。
エオラの人々への影響
国立博物館は、第一船団の到着が、シドニー周辺の土地の伝統的な所有者であるエオラ(Eora)の人々の暮らしを大きく変えたとしています。
- 入植者とエオラの人々の間の暴力は、植民地ができてすぐに始まりました。主な原因は土地と食料でした。
- エオラの人々、特に戦士ペマルワイ(Pemulwuy)は、植民者と戦いました。
- 天然痘などのヨーロッパから来た病気で、何千人ものエオラの人々が亡くなりました。
国立博物館は、流刑の植民地がその後もアボリジナルとトレス海峡諸島民に深刻な影響を与え続けたとしています。先住民の側から見た歴史は「先住民の歴史」にまとめています。
その後
国立博物館の教材では、囚人の移送は1868年まで続き、ニューサウスウェールズとほかの植民地へ多くの囚人が送られました。流刑の仕組みは「流刑植民地」で説明します。
ここに注意してね!
- 第一船団がシドニー・コーブに入植した1月26日は、のちに「オーストラリア・デー」になりました。祝日としての今の姿は「オーストラリア・デー」で紹介しています。
- シドニー・コーブ(今のサーキュラー・キー)は、シドニーの中心部にあります。街の案内は「シドニー」へ。
- 歴史全体の流れは「歴史の概要」でまとめています。
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