流刑植民地(Convict transportation)
1788年から1868年まで、イギリスは有罪となった人々をオーストラリアの植民地へ送りました。囚人は政府や入植者のもとで働き、道路や建物をつくりました。最後の囚人船は1868年1月9日に西オーストラリアのフリーマントルに着きました。各地に残る11の流刑地は、世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群」になっています。
流刑とは
流刑(transportation)は、有罪となった人々を遠い植民地へ送り、そこで働かせる刑罰です。国立博物館(National Museum of Australia)の教材ページ(新しいタブで開く)の説明では、イギリスは1783年にアメリカの植民地を失った後、囚人の送り先としてオーストラリアに目を向けました。1868年までにオーストラリアへ送られた囚人は、15万人を超えました。
流刑の時代の流れ
国立博物館の流刑の終わりについてのページによる主なできごとです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1788年 | ニューサウスウェールズのシドニー・コーブに、イギリスの流刑植民地がつくられる |
| 1830年代 | オーストラリアで、流刑の廃止を求める人が増える |
| 1837年 | イギリス政府が流刑についての調査を始める |
| 1840年 | ニューサウスウェールズへの流刑が終わる |
| 1849年5月 | 西オーストラリアが流刑植民地になる |
| 1850年 | 西オーストラリアのスワン・リバー植民地に囚人が着き始める |
| 1853年 | ヴァン・ディーメンズ・ランド(今のタスマニア)への流刑が終わる |
| 1868年1月9日 | 囚人船ホーグモン(Hougoumont)がフリーマントルに着く。乗っていた279人が、オーストラリアに送られた最後の囚人だった |
当時、人を世界の反対側へ送って働かせるのは間違っていると考える人がいました。多くの囚人の罪が軽いものだったことも、そう考える理由に挙げられています。
西オーストラリアは、はじめは囚人を受け入れていませんでした。経済が苦しくなった時期に方針を変え、囚人は道路・橋・重要な建物の建設に使われました。
囚人の働き方
囚人は罰として、政府や自由入植者のもとで働かされました。
世界遺産「オーストラリアの囚人遺跡群(Australian Convict Sites)」の冊子(新しいタブで開く)は、次のような仕組みを紹介しています。
| 仕組み | 冊子の説明 |
|---|---|
| 割り当て(assignment) | 囚人を入植者のもとで働かせ、入植者は食べ物と衣服を与える。主人は囚人の心身の状態にも責任を持った |
| 再犯者への罰(secondary punishment) | 植民地で再び罪を犯した囚人は、ノーフォーク島(1824年から)やシドニーのコカトゥー島(1839年から)などに送られたり、道路をつくる作業班で働かされたりした |
| チケット・オブ・リーブ(ticket of leave) | 囚人に与えられた書類。シドニーのハイド・パーク・バラックスでは、割り当てや恩赦とともにこの書類の手続きも扱った。冊子の囚人の話では、決められた地区にとどまり、定期的な点呼に出る決まりがあったことが紹介されている |
冊子が挙げる女性の囚人の数は約2万5,000人で、囚人全体の15〜17%でした。タスマニアのカスケーズ女囚工場(Cascades Female Factory)では、女性が縫製や糸紡ぎなどの仕事をしていました。
世界遺産の11の流刑地
流刑の歴史を伝える11の場所は、まとめて世界遺産になっています。全国には、ほかにも3,000を超える流刑の遺跡が残っています。
| 場所 | 州・地域 | 冊子に書かれた年代 |
|---|---|---|
| キングストンとアーサーズ・ヴェール歴史地区(Kingston and Arthur’s Vale Historic Area) | ノーフォーク島 | 1788〜1814年、1824〜1855年 |
| 旧総督官邸と敷地(Old Government House and Domain) | NSW(パラマタ) | 1788〜1856年 |
| ハイド・パーク・バラックス(Hyde Park Barracks) | NSW(シドニー) | 1819〜1848年 |
| ブリッケンドンとウールマーズの農園(Brickendon–Woolmers Estates) | TAS(ロングフォード) | 1820〜1850年代 |
| ダーリントン保護観察所(Darlington Probation Station) | TAS(マライア島国立公園) | 1825〜1832年、1842〜1850年 |
| オールド・グレート・ノース・ロード(Old Great North Road) | NSW(ワイズマンズ・フェリー) | 1828〜1835年 |
| カスケーズ女囚工場(Cascades Female Factory) | TAS(サウス・ホバート) | 1828〜1856年 |
| ポート・アーサー歴史地区(Port Arthur Historic Site) | TAS(ポート・アーサー) | 1830〜1877年 |
| 炭鉱歴史地区(Coal Mines Historic Site) | TAS(ノーフォーク湾) | 1833〜1848年 |
| コカトゥー島の流刑地(Cockatoo Island Convict Site) | NSW(シドニー) | 1839〜1869年 |
| フリーマントル刑務所(Fremantle Prison) | WA(フリーマントル) | 1852〜1886年 |
冊子は、ノーフォーク島の2回目の流刑地を、流刑制度の中でも最も厳しいものの象徴になった場所として紹介しています。
先住民との関係
国立博物館は、流刑の植民地が、その後もアボリジナルとトレス海峡諸島民に深刻な影響を与え続けたとしています。冊子をつくった運営委員会も、植民地の歴史は先住民にとって激しい衝突と、土地を追われることと、心の傷の歴史であったと認めています。この歴史は「先住民の歴史」で扱っています。
ここに注意してね!
- 流刑地の多くは、今は博物館や史跡として公開されています。見学の時間や料金は、それぞれの施設の公式サイトに載っています。
- ほかの世界遺産は「オーストラリアの世界遺産」に一覧があります。
- 流刑植民地の始まりは「第一船団と植民地の始まり」、歴史全体の流れは「歴史の概要」でまとめています。
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