ゴールドラッシュ(Gold rushes)
1851年、ニューサウスウェールズとビクトリアで金が見つかり、世界中から人が集まるゴールドラッシュが始まりました。1851年から1871年に人口は43万人から170万人へと4倍になり、1854年には金鉱の労働者が政府に反発した「ユーリカ砦の反乱」が起きました。
金の発見とラッシュの始まり
国立博物館(National Museum of Australia)のゴールドラッシュのページ(新しいタブで開く)は、1850年代の金の発見を、植民地を大きく変える一連のラッシュの始まりと位置づけています。採算の取れる量の金が最初に見つかったのは、ニューサウスウェールズ(NSW)のオフィール(Ophir)です。その後、ビクトリアのバララット(Ballarat)とベンディゴ・クリーク(Bendigo Creek)でも見つかりました。
- 1851年以前にも、NSWのバサースト(Bathurst)周辺やタスマニアなどで金は見つかっていました。
- 1848年にアメリカのカリフォルニアで金が見つかると、多くの男性がNSWを離れて人手不足になりました。
- NSWの総督は、金の発見で景気を立て直そうと考え、金を見つけた人への報奨金を用意しました。
- オフィールでの発見はシドニーの新聞で伝えられ、1851年5月15日までに300人の採掘者が集まりました。
ビクトリアのラッシュ
NSWの金鉱へ人が流れたため、ビクトリアの政府はメルボルンから200マイル以内で金を見つけた人に報奨金を出しました。6か月のうちに、クルーンズ(Clunes)、バララット、キャッスルメイン(Castlemaine)、ベンディゴで金が見つかりました。
ビクトリアの産出量は、1850年代の世界の金の生産の3分の1以上を占めたとされています。国立博物館のユーリカ砦のページでは、ビクトリアの人口は1851年から1860年の間に7万6,000人から54万人に増えたと説明しています。
ほかの植民地へ
| 時期 | 場所 |
|---|---|
| 1852年から | タスマニア |
| 1857年から | クイーンズランド |
| 1871年から | 北部準州(NT) |
| 1890年代 | 西オーストラリアのカルグーリー(Kalgoorlie)とクールガーディ(Coolgardie) |
人口と移民
1851年から1871年の間に、オーストラリアの人口は43万人から170万人へと4倍になりました。金を求めて世界中から人が来たためです。
- ヨーロッパ以外から来た最大のグループは中国からの人々でした。その多くは契約に縛られた労働者で、政府やほかの採掘者から差別を受けました。1855年までに、ビクトリアの金鉱には約2万人の中国の人々がいたと推計されています。
- 移民の中には、新しい政治の考えを持つ人も多くいました。
ユーリカ砦の反乱(1854年)
国立博物館のユーリカ砦のページの説明では、植民地の政府は採掘者に月30シリングの採掘許可料(licence fee)を課していました。地表の金が減った1852年ごろから、この料金への不満が高まりました。
- 1854年11月29日、バララットの採掘者がバカリー・ヒル(Bakery Hill)で南十字星の旗(ユーリカ旗)を掲げました。
- 採掘者は近くのユーリカの採掘場に砦(stockade)を築きました。
- 1854年12月3日(日)の早朝、兵士と警察が砦を攻撃しました。攻撃は15分で終わり、少なくとも採掘者22人(女性1人を含む)と兵士5人が亡くなりました。
- 捕まった人のうち13人がメルボルンで裁判にかけられ、陪審の評決で一人ずつ釈放されました。
- 1855年3月、調査委員会の勧告で採掘許可料は廃止されました。代わりに金の輸出税と、年£1の採掘者の権利(miner’s right)が導入されました。
国立博物館は、ユーリカ砦の反乱を、オーストラリアの政治の仕組みや民主主義・平等への考え方が発展するうえでの重要な出来事としています。ユーリカ旗は、オーストラリアの労働運動の象徴になりました。
ゴールドラッシュが残したもの
国立博物館のゴールドラッシュのページは、ゴールドラッシュが人口を大きく増やし、経済を押し上げ、新しい国としての意識を生んだと説明しています。秘密投票、1日8時間労働、労働党の結成といった社会の動きにもつながったとしています。
ここに注意してね!
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