歴史の概要(History of Australia)
オーストラリアには数万年前から先住民(アボリジナルとトレス海峡諸島民)が暮らしてきました。1788年にイギリスの流刑植民地が始まり、1901年に6つの植民地がまとまってオーストラリア連邦ができました。戦後の移民、1967年の国民投票、1992年のマボ判決など、主なできごとを年表でまとめました。
国の機関(内務省、国立博物館、戦争記念館など)の説明をもとに、主なできごとを年代順にまとめます。
先住民の歴史
オーストラリアに最初に暮らしたのは、アボリジナルとトレス海峡諸島民(Aboriginal and Torres Strait Islander peoples)です。内務省(Department of Home Affairs)の市民権テストの学習用資料(新しいタブで開く)は、次のように説明しています。
- 先住民は、世界で最も古くから続く文化と伝統を持っています。
- 考古学の記録では、アボリジナルの人々は6万5,000年前から4万年前の間にオーストラリアに来たとされています。
- 一方でアボリジナルの人々は、自分たちがこの土地の創造の物語の中心にいて、その物語は時の始まりから続いていると考えています。
先住民の歴史は「先住民の歴史」で詳しく扱います。
年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1770年 | ジェームズ・クック(James Cook)が東海岸をイギリスの領有と宣言する。4月29日、のちのボタニー湾でイギリスの旗を掲げる |
| 1788年 | 1月26日、アーサー・フィリップ(Arthur Phillip)が率いる11隻の第一船団がシドニー・コーブに流刑植民地を開く |
| 1851年 | ニューサウスウェールズとビクトリアでゴールドラッシュが始まる |
| 1868年 | 流刑囚の移送が終わる |
| 1901年 | 1月1日、6つの植民地がまとまり、オーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)ができる。5月9日、メルボルンで最初の連邦議会が開かれる |
| 1915年 | 4月25日、第一次世界大戦でオーストラリアとニュージーランドの兵士がガリポリに上陸する |
| 1947年 | 戦後の移民の受け入れで、ヨーロッパからの避難民の移住が始まる |
| 1948年 | 国籍・市民権法(Nationality and Citizenship Act 1948)で、オーストラリア独自の市民権ができる |
| 1966年 | 2月14日、十進法の通貨(ドルとセント)が始まる。同じ年、人種によって移民を制限する政策(白豪主義)をなくす大きな一歩となる制度の変更が行われる |
| 1967年 | 5月27日、先住民に関する憲法改正の国民投票で、約91%が賛成する |
| 1973年 | 連邦政府が白豪主義を正式に放棄し、多文化主義の政策を取り入れる |
| 1992年 | 6月3日、高等裁判所(High Court of Australia)がマボ判決で先住権(native title)を認める |
| 2008年 | 2月13日、ケビン・ラッド首相が、先住民の子どもを家族から引き離した過去の政策について、連邦議会で公式に謝罪する |
植民地の始まり
国立博物館(National Museum of Australia)の教材(新しいタブで開く)の説明では、イギリスはアメリカの植民地を失った後、囚人の送り先としてオーストラリアを選びました。第一船団の到着は、シドニー周辺の伝統的な土地の所有者であるエオラ(Eora)の人々の暮らしを大きく変えました。
囚人の移送は1868年まで続き、送られた囚人は15万人を超えました。
ゴールドラッシュ
1851年に金が見つかると、世界中から人が集まりました(国立博物館のゴールドラッシュのページ(新しいタブで開く))。1851年から1871年の間に、人口は43万人から170万人へと4倍になりました。中国からの人々は、ヨーロッパ以外から来た最大のグループでした。
連邦の成立
国立博物館の連邦成立のページのとおり、19世紀後半のオーストラリアは、それぞれ法律や関税の違う6つのイギリスの植民地に分かれていました。各植民地での住民投票を経て、イギリス議会が1900年に法律(Commonwealth of Australia Constitution Act 1900)を定め、1901年1月1日にオーストラリア連邦が生まれました。
最初の連邦議会が早い時期に定めた法律の一つが、移民を制限する法律(Immigration Restriction Act 1901)です。この法律は「白豪主義(White Australia policy)」と呼ばれました。
第一次世界大戦
第一次世界大戦では6万人を超えるオーストラリア人が亡くなりました(戦争記念館(Australian War Memorial)(新しいタブで開く))。1915年のガリポリ上陸の日である4月25日は、「アンザック・デー」として追悼の日になっています。
戦後の移民と多文化社会
国立博物館の白豪主義の終わりについてのページでは、第二次世界大戦の後、政府は人口を増やすため移民の受け入れを広げました。1947年にはヨーロッパの避難民の受け入れが始まりました。その後、南欧・東欧からの移民を受け入れ、中東やアジアからの限られた一時的な移住も認めるようになりました。
1966年の制度の変更で、すべての移民希望者に同じ規則が適用されるようになりました。1973年には連邦政府が白豪主義を正式に放棄し、多文化主義の政策を取り入れました。
統計局(Australian Bureau of Statistics、ABS)の国勢調査の分析(新しいタブで開く)は、海外で生まれた人の割合が1947年に9.8%まで下がった後、戦後の移民の受け入れで増えていったとしています。今の様子は「多文化社会」にまとめています。
先住民の権利
- 1967年の国民投票:国立博物館のページにあるとおり、憲法には先住民を人口に数えないなどの条文がありました。1967年5月27日の国民投票で約91%が憲法の改正に賛成し、先住民が人口に数えられ、連邦政府が先住民のための法律を作れるようになりました。
- マボ判決:1992年6月3日、高等裁判所はトレス海峡のメール島(Mer、マレー島)について、エディ・マボらメリアムの人々の伝統的な所有を認めました。翌1993年には先住権法(Native Title Act 1993)ができました。
- 国の謝罪:国立博物館のページでは、2008年2月13日、ケビン・ラッド首相が先住民の人々、特に過去の政策で家族から引き離された「盗まれた世代(Stolen Generations)」に対して公式に謝罪しました。
日本とのちがいと注意点だよ!
- オーストラリアの歴史には、先住民の数万年の歴史と、1788年以降の植民地の歴史の両方があります。同じできごとでも、立場によって受け止め方が違うことがあります。
- 市民権テストでは、オーストラリアの歴史や国のシンボルについての知識も問われます。内務省の学習用資料は、上にリンクしたポッドキャストの書き起こしでも読めます。
- 日本とオーストラリアの関係の歴史は「日豪関係の歴史」で扱います。
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