白豪主義とその廃止(White Australia policy)
ひとことで言うと
1901年の移民制限法(Immigration Restriction Act 1901)を中心に、イギリス系以外の移民を制限した政策は「白豪主義」と呼ばれます。書き取り試験(dictation test)は1958年の移民法で廃止され、1966年に移民の規則がすべての人に同じになり、1973年に多文化主義の政策が始まりました。
白豪主義とは
「白豪主義(White Australia policy)」は、イギリス系の人々の移住を認め、それ以外の人々の移住を制限した政策の呼び名です。国立博物館(National Museum of Australia)の教材ページ(新しいタブで開く)をもとに、始まりから廃止までをまとめます。
政策の始まり
移民制限法(Immigration Restriction Act 1901)は、1901年12月23日に法律になりました。新しい連邦議会が最初に定めた法律の一つです。国立博物館の学習教材は、この法律を白豪主義の主な手段としています。
同じ1901年には、太平洋諸島からの労働者についての法律で、外から連れてくる労働力が禁止されました。
背景
国立博物館は、次のような背景を挙げています。
- 1850〜1860年代のゴールドラッシュの時代に、白人以外の移民が増えた。
- 移民は、安い賃金で働いたり、白人の店より安く物を売ったりすることが多かった。
- オーストラリアは、平等な権利を進める「働く人の楽園」を目指していた。
- 政策は特にアジアからの移民への不安を背景にし、白人以外のすべての人に適用された。
ゴールドラッシュの時代の中国からの人々のことは「ゴールドラッシュ」で触れています。
書き取り試験(dictation test)
移民制限法のもとで、新しく来た移民には50語の書き取り試験が課されました。国立博物館が挙げる特徴は次のとおりです。
- 英語で合格しても、不合格になるまで別の言語で何度も試験を受けさせられることがあった。
- イギリス系の白人の移民は、試験を受けさせられなかった。
- 1901年から1909年に行われた1,359回の試験のうち、合格したのは52人だけで、1909年以降の合格者はいなかった。
人口への影響
国立博物館は、次の数字を紹介しています。
- 1947年には、オーストラリア・アイルランド・イギリス以外で生まれた人は、人口の2.7%だけだった。
- アジア系の人口の割合は、1901年の1.25%から、1940年代後半には0.21%まで減った。
廃止までの流れ
国立博物館の白豪主義の終わりについてのページによる主なできごとです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1945年 | 移民大臣アーサー・コールウェル(Arthur Calwell)が、人口を増やす必要を「populate or perish(人口を増やすか、滅びるか)」と訴える |
| 1957年 | 自由党の政府が、ヨーロッパ以外の人の移住の規則を一部ゆるめる |
| 1958年 | 移民法(Migration Act 1958)で、書き取り試験が廃止される |
| 1966年 | ハロルド・ホルト(Harold Holt)首相の自由党政府が移民の法律を変える。市民権を得るまでの待機期間が、すべての移民で同じ5年になる |
| 1973年 | ホイットラム(Whitlam)労働党政府が多文化主義(multiculturalism)の政策を始める |
| 1975年 | 人種差別禁止法(Racial Discrimination Act)で、政策が完全に取り除かれる |
1966年の変更について、国会の討論では、新しい法律は肌の色や人種で差別しないものだと説明されました。
日本とのちがいと注意点だよ!
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