戦後の移民(Post-war migration)
第二次世界大戦の後、政府は「populate or perish(人口を増やすか、滅びるか)」の考えで移民の受け入れを広げました。1945年から1965年に200万人の移民が到着しました。イギリスからの渡航援助、ヨーロッパからの移民、スノーウィー・マウンテンズ水力発電計画などをまとめます。
目次
国立博物館(National Museum of Australia)の戦後の移民についての教材ページ(新しいタブで開く)をもとにまとめます。
「populate or perish」
第二次世界大戦で国が脅かされた経験から、政府はオーストラリアが「populate or perish(人口を増やすか、滅びるか)」の状況にあると考えました。
| 項目 | 数字 |
|---|---|
| 1945〜1965年に到着した移民 | 200万人 |
| 1946〜1960年に移住した人 | 120万人。この間の人口増加の3分の1にあたる |
イギリスからの渡航援助
1945年、政府はイギリスからの移民家族を呼ぶため、「渡航援助移民制度(Assisted Passage Migration Scheme)」を始めました。この制度は「テン・パウンド・ポム(Ten-Pound Pom)」とも呼ばれます。1947年までに申し込んだイギリスの人々は、40万人を超えました。
国立公文書館(National Archives of Australia)の資料の説明では、この制度でイギリスの人々は10ポンドでオーストラリアに移住できました。1966年には、ヨーロッパ系以外のイギリス国民も、この制度を使えるようになりました。
イギリス以外からの移民
初代の移民大臣アーサー・コールウェル(Arthur Calwell)は、イギリス以外にも移民を求めました。
- 1947年に、バルト海沿岸の地域からの移民を乗せた最初の船が着きました。
- その後、南ヨーロッパと東ヨーロッパからの移民も、少しずつ受け入れられました。
- 1940年代の終わりから1950年代の初めには、中東とアジアからの一時的な移民が認められました。
- 1957年、自由党の政府が、ヨーロッパ以外からの移民が市民になりやすくしました。
当時は、イギリス系以外の移民を制限する政策(白豪主義)が続いていました。政策の移り変わりは「白豪主義とその廃止」で扱っています。
オーストラリア市民権の始まり
国立博物館の教材ページの説明では、1949年1月26日に国籍・市民権法(Nationality and Citizenship Act 1948)が施行されました。
- 「オーストラリア市民(Australian citizen)」という言葉が法律で使われたのは、これが初めてでした。
- それまで、オーストラリアで生まれた人は、オーストラリア市民ではなく英国臣民(British subjects)でした。
- オーストラリアで生まれた住民は、自動的に市民になり、英国臣民の身分も持ち続けました。
- 法案を議会に出したのは、コールウェル移民大臣です。
- 1984年の改正で、オーストラリア市民は英国臣民とはみなされなくなりました。
スノーウィー・マウンテンズ水力発電計画
国立博物館の教材ページによると、スノーウィー・マウンテンズ水力発電計画(Snowy Mountains Hydro-Electric Scheme)は、1949年から1972年にかけてつくられた、オーストラリアで最大の水力発電の計画です。
- 10万人を超える人が働き、その中には30を超える国からの移民がいました。
- 7つの発電所、16のダム、145kmのトンネルなどがつくられました。
ベトナムからの難民
国立博物館の教材ページにあるとおり、1976年4月26日、最初の大人の難民を乗せた船「Kein Giang」がダーウィン港に着きました。その後、オーストラリアに来たベトナムの人々の多くは、政府の職員が難民キャンプで選び、飛行機で来ました。2016年の国勢調査では、ベトナム生まれの人は21万9,355人でした。
今の社会
国立博物館は、今も移民はオーストラリア社会の大切な一部だとしています。住民の4分の1を超える人が海外生まれです。
ここに注意してね!
- 今のオーストラリアの多文化社会は「多文化社会」にまとめています。
- 市民権の取得の仕組みは「市民権の取得」で説明しています。
- スノーウィー・マウンテンズへの旅行は「スノーウィー・マウンテンズ」で紹介しています。
- 歴史全体の流れは「歴史の概要」でまとめています。
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