第二次世界大戦(Second World War)
1939年9月3日、メンジーズ首相がオーストラリアの参戦を発表しました。約100万人の男女が従軍し、3万9,000人が亡くなりました。1942年にはシンガポールが陥落し、ダーウィンが空襲を受け、太平洋での戦いがオーストラリアに迫りました。
オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial、AWM)の第二次世界大戦のページ(新しいタブで開く)と、国立博物館(National Museum of Australia)の教材ページをもとにまとめます。
参戦と戦争の規模
AWMのページでは、1939年9月3日、ロバート・メンジーズ(Robert Gordon Menzies)首相が、オーストラリアが第二次世界大戦に加わることを発表しました。オーストラリアの人々は、ヨーロッパ、地中海、北アフリカで戦い、東南アジアと太平洋では日本と戦いました。
| 項目 | 数字 |
|---|---|
| 従軍した人 | 男女合わせて約100万人 |
| 亡くなった人 | 3万9,000人 |
| 捕虜になった人 | 3万人を超える |
| 日本軍の捕虜になった人のうち、亡くなった割合 | 36% |
女性の部隊もつくられました。1941年2月に空軍の女性補助部隊(WAAAF)の設立が内閣で認められ、1942年には海軍の女性部隊(WRANS)ができました。
シンガポールの陥落
国立博物館の教材ページ(新しいタブで開く)の説明では、日本軍は1942年2月8日にシンガポールに攻め込みました。1942年2月15日、イギリスの司令官アーサー・パーシバル(Arthur Percival)が降伏しました。
- 1万5,000人を超えるオーストラリア兵が捕虜になりました。海外にいたオーストラリア兵のほぼ4分の1にあたります。
- そのうち7,000人が、捕虜のまま亡くなりました。
兵士の帰国
国立博物館の教材ページにあるとおり、1942年2月、ジョン・カーティン(John Curtin)首相は、イギリスのチャーチル首相の反対を受けながら、中東にいたオーストラリア兵を国に戻しました。戻った兵士は、パプアのミルン湾(Milne Bay)やココダ・トラック(Kokoda Trail)の戦いに加わりました。
国立博物館は、これをオーストラリアの外交の重心がイギリスからアメリカに移ったできごととしています。
ダーウィンの空襲
国立博物館の教材ページによると、シンガポールの陥落後の1942年2月、日本軍がダーウィン(Darwin)を爆撃しました。
- この爆撃で243人が亡くなり、最大400人が負傷しました。
- 日本軍は、戦争の間にさらに63回ダーウィンを爆撃しました。
空襲のくわしい経過は「ダーウィン空襲」にまとめています。
ココダ・トラック
1942年7月21日、日本軍がパプアのブナ(Buna)とゴナ(Gona)に上陸しました(同じページ)。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 最初の兵力 | オーストラリア軍420人に対し、日本軍4,000人以上 |
| 9月14日 | 日本軍が、ポートモレスビーから40kmのイオリバイワ(Ioribaiwa)の尾根まで進む |
| 1943年1月 | 日本軍がパプアから撤退する |
| 死傷者 | オーストラリア兵600人以上が死亡、1,000人が負傷。日本兵の死者は推定900人 |
国立博物館は、ココダでの勝利が、太平洋戦争の流れを連合国に有利に変える助けになったとしています。
戦争の終わり
AWMの年表では、1945年5月7日にドイツの最高司令部が無条件降伏の署名を認めました。1945年8月14日、日本が連合国の無条件降伏の要求を受け入れました。
日本との違い・注意点
- 戦争の間、日本はオーストラリアの敵国でした。日本との関係の歴史は「日豪関係の歴史」でまとめています。
- シドニー湾の攻撃とカウラの捕虜収容所については、「シドニー湾攻撃」と「カウラと日本」で扱っています。
- 戦後に始まった大規模な移民の受け入れは「戦後の移民」、第一次世界大戦は「第一次世界大戦とガリポリ」の記事にあります。
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