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基礎知識 / 歴史

連邦の成立(Federation)

ひとことで言うと

1901年1月1日、イギリスの6つの植民地がまとまり、オーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)ができました。これを「フェデレーション(Federation)」と呼びます。憲法の草案づくり、各植民地での住民投票、イギリス議会での法律の成立までの流れをまとめました。

目次
  1. フェデレーションとは
  2. 日本との違い・注意点
下院 上院

フェデレーションとは

議会教育局(Parliamentary Education Office、PEO)のページ(新しいタブで開く)によると、1901年1月1日、ニューサウスウェールズ(NSW)、ビクトリア(VIC)、クイーンズランド(QLD)、南オーストラリア(SA)、西オーストラリア(WA)、タスマニア(TAS)の6つのイギリスの植民地がまとまり、オーストラリア連邦ができました。この過程を「フェデレーション(Federation)」と呼びます。

PEOのページは、アボリジナルとトレス海峡諸島民が少なくとも6万年にわたってこの地で暮らしてきたことにも触れています。イギリスの植民地は1700年代後半から作られました。

連邦ができる前

1800年代後半の植民地は、それぞれ議会を持っていましたが、イギリス議会の立法権の下にありました。PEOの言葉を借りれば、ほとんど6つの別々の国のようでした。

  • それぞれが政府と法律、軍隊を持っていた
  • 切手を別々に発行していた
  • 植民地の境を越える品物に関税をかけていた
  • 鉄道の線路の幅(軌間)が植民地ごとに違った

連邦を求めた主な理由

PEOは、主な理由として次の4つを挙げています。

理由内容
自由な貿易植民地の間の関税をなくし、1つの市場にすれば経済が強くなると考えられた。メルボルンとシドニーの間の列車は、境のオールベリー(Albury)で荷物の検査のため止められていた
防衛植民地ごとの軍は小さく、イギリス海軍に頼っていた。1889年のイギリスの報告書は、国としての防衛軍を作るよう勧めた
移民当時は、イギリス以外からの移民を支持しない人が多かった。国の政府のほうが移民を管理しやすいと考えられた
国としての誇り1901年までに、人口の4分の3以上がオーストラリア生まれになっていた

憲法ができるまで

PEOのページによる主な流れです。

年できごと
1889年NSWのヘンリー・パークス(Sir Henry Parkes)首相が、テンターフィールド(Tenterfield)での演説で連邦を呼びかける
1890年メルボルンでオーストラレーシア連邦会議が開かれ、憲法の草案を作る会議を開くよう求める
1891年シドニーで最初の憲法会議が開かれ、草案を作る。この草案が今の憲法のもとになった
1891〜1894年不況で、植民地の議会が連邦への関心を失う
1893年NSWのコロワ(Corowa)で市民の会議が開かれ、新しい会議と住民投票を提案する
1897〜1898年2回目の憲法会議がアデレード、シドニー、メルボルンで開かれ、憲法の草案がまとまる
1898年NSW、VIC、SA、TASで住民投票。NSW以外で承認される
1899年1月に首相たちが非公開で会議を開き、草案を一部変える。4〜7月にSA、NSW、VIC、TASで、9月にQLDで住民投票が行われ、承認される
1900年7月5日にイギリス議会が「Commonwealth of Australia Constitution Act 1900」を可決し、7月9日にヴィクトリア女王が署名。7月31日にWAで住民投票が行われ、承認される
1901年1月1日、シドニーのセンテニアル・パーク(Centennial Park)でオーストラリア連邦の成立が宣言される

1898年のNSWの住民投票では、賛成が反対を上回りました。しかし、NSWの議会が決めた「賛成8万票以上」という条件に届きませんでした。1899年1月の会議では、首都をシドニーから100マイル(160.9km)以上離れたNSWの中に置くことなどが決まりました。

PEOは、オーストラリアを、憲法の案を国民の投票にかけて承認を求めた最初の国としています。

住民投票の結果

PEOのページによる、各植民地の住民投票の結果です。

年植民地賛成反対
1898年NSW71,59566,228
1898年VIC100,52022,099
1898年SA35,80017,320
1898年TAS11,7972,716
1899年NSW107,42082,741
1899年VIC152,6539,805
1899年QLD38,48830,996
1899年SA65,99017,053
1899年TAS13,437791
1900年WA44,80019,691

憲法の仕組み

国立公文書館(National Archives of Australia)のページ(新しいタブで開く)によると、憲法のもとで、それまでの植民地は「州(state)」となり、自分たちの政府の仕組みを残しました。国全体にかかわることは、別に作られた連邦政府が担当することになりました。憲法は、国王(当時は女王)の代理である総督(Governor-General)の職も定めました。

PEOが挙げる憲法の草案の特徴は、次のとおりです。

  • 連邦議会は、国王(総督が代理)、上院(Senate)、下院(House of Representatives)で構成する。
  • 連邦議会は、貿易、防衛、移民、郵便・電信、結婚と離婚など、国全体にかかわる分野を担当する。
  • 下院は人口をもとに選び、上院は各州が同じ人数を選ぶ。
  • 高等裁判所(High Court)が憲法を解釈し、連邦と州の争いを解決する。

今の憲法と政治の仕組みは「憲法」と「連邦議会(下院と上院)」で扱います。

最初の連邦議会

最初の連邦選挙は1901年3月29日と30日に行われました。最初の連邦議会は、1901年5月9日にメルボルンの王立展示館(Exhibition Building)で開かれました。連邦議会は、1927年にキャンベラに国会議事堂ができるまで、メルボルンのビクトリア州議会の議事堂を使いました。

初代首相はエドマンド・バートン(Edmund Barton)、初代総督はホープトゥーン卿(Lord Hopetoun)です。

ここに注意してね!

  • PEOは、連邦の成立の過程に参加できなかった人がいたことにも触れています。SAとWA以外の植民地では女性に投票権がなく、アボリジナルとトレス海峡諸島民は、ほとんどの手続きや祝典から外されていました。
  • 連邦の成立で「州」になったのは、もとの6つの植民地です。今の州と準州は「州と準州」にまとめています。
  • 国旗の図案は、連邦ができた後の1901年に募集されました。いきさつは「国旗・国歌・国の紋章」で扱っています。
  • 全体の歴史の流れは「歴史の概要」でまとめています。

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